人々の流れがおかしい。
気付いたのは、今まで来た旧道を離れ、若干近道である新道を皇都エル・フェイムへ戻り始めた時だった。 旧道とは異り多少は人の流れもあるだろう、そう予想はしていたのだが、季節外れにしては人通りが多い気がする。 しかも、彼らは等しく巡礼者には見えない、着の身着のままの格好をしているのである。 表情は一様に暗く疲れ果て、手を引かれている子どもは声を上げて泣いているような有様だ。 一体何事かとでも言うように見つめてくるシエル。 対してペドロは心底わからないと言うように首を左右に振りつつ、道行く人々を注意深く観察していた。「確かにおかしいですね。子どもや高齢者がこんな厳しい季節に巡礼に出ているとは。今までもこんな具合だったのですか?」 今度はシエルが首を左右に振る番だった。 足元の毛糸玉を指差しながらぶっきらぼうに答える。「まさか。……確かに途中までは新道を進んでたけど、一人か二人とすれ違うかどうか程度だった。旧道で会ったのもこいつだけだったし。何より俺の後をつけてきたなら、それくらい知ってるだろ?」 確かに、と言いながらペドロは難しい顔をして腕を組む。 その時、毛糸玉がシエルの元を離れ、一目散に走り出した。 待て、と言いながらシエルはその後を追う。 毛糸玉が足を止めた先には、巡礼とはまったく無縁とおぼしき子どもたちだけの一団が肩を寄せ合いうずくまっている。毛糸玉はその様子をを不安げに見上げていた。 遠目に見ても、彼らをまとめている人物のくすんだ金髪には覚えがあった。 呼吸を整えてからシエルは静かに歩み寄り、いぶかしげに声をかける。「テッドじゃないか? 一体どうしてこんなところに?」 視線がぶつかった刹那、それまでうつろだったテッドの瞳に理性の光が戻った。 戸惑うシエルを意に介することなく、テッドはシエルにすがりつき号泣する。「テッド……一体…&he《》 そして、いつしか日は暮れた。 ようやく惨劇が終わり、何事もなかったかのように静まり返る本陣内をユノーは小走りに横切り、自分の天幕へと向かった。 大きく息をつき、乱れた呼吸を整えてから彼はその中に入る。「……敵襲か?」 突然の声に、ユノーは思わず飛び上がる。 ランプの光が灯る薄暗い天幕の中で、その人は膝を抱えうずくまっていた。「いいえ。……お加減はいかがですか?」 不安げに問うユノー。 返ってきたのは、感情の無い低い声だった。「何ともない……。それより、あいつは?」「ようやく落ち着かれました。もういつもの殿下です」 その言葉に、その人はそうか、とつぶやくと立ち上がろうとする。 あわててユノーはそれを制した。「そのまま、お休みになっていて下さい。まだ……」「しかし、貴官はどうする? ここは……」「小官ならその辺りで適当に休みます。ですから……」 必死になるユノーに、その人は僅かに唇の両端を上げた。 初めて見る穏やかな微笑に、ユノーは思わず口ごもる。「……眠れないんだ」「え……?」 首をかしげるユノーに、その人は繰り返した。「眠れないんだ……。眠ると、あの時の夢を見るから」 大将は決戦の前は必ず寝坊する癖がある。 そういえば初陣の時、そんなことを聞いた覚えがある。 遠征中、一睡もできずにいたとすれば無理はない。 そして、『あの時』という言葉が何を意味しているのかを理解し、ユノーはひざまずき、深々と頭を垂れた。
何が起こったのか解らないユノーの視界に、一人の戦士が飛び込んできた。 その人がまとっている真新しい白銀の甲冑は紛れもなく……。 「不殺生を常とする神官騎士が、どうして戦場(こんな所)に……?」 ミレダの口から驚きの声がもれる。 常ならば殺生を禁じられているはずの存在が突然血なまぐさい戦場に現れたのだから、無理もない。 が、それを意に介することなく、乱入してきた神官騎士は周囲に死体の山を築き上げていた。 無敵という言葉は、まさにこの人のためにあるのかもしれない。 ユノーはふとそんなことを思った。 それほどまでに突如現れた神官騎士の戦い様はすさまじいものだった。 迷うことなく振り下ろされる剣は、確実に向かってくる敵に致命傷を与え、戦闘不能にしていった。 それに反比例するように、身にまとっている白銀の甲冑は目に見えて返り血で紅に染まっていく。 だが、敵も精鋭部隊であろう、ただただやられているばかりではなかった。 死角から不意に飛び出した漆黒の武人が神官騎士に向かい、剣を大上段から振り下ろした。 「危ない!」 とっさにユノーは叫んだ。 それに応じ振り返った神官騎士の頭上に剣がぶつかり、火花と共にその兜が割れる。 こぼれ落ちたのは、セピアの髪。 まったく感情の無い冷たい藍色の瞳で目の前の敵を見据えると、その人はためらうことなく割られた兜の礼とでも言うように敵の脇腹へ自らの剣を叩き込んだ。 耳をつんざく断末魔の叫びが響く。 すでに戦意を喪失していた敵は、誰からともなくわらわらと撤退していく。 「か……閣下……」 ユノーの口から安堵とも歓喜とも取れる声が漏れる。 が、その人はそれに応じることなく、唖然として立ち尽くすミレダに向かいつかつかと歩み寄った。 そしてその正面に立つなり、右手を振り下ろす。 突然の平手打ちを食らい、ミレダはわずかに腫れた頬を抑えよろめいた。 「どうして
日が昇った。 両軍から鏑矢が放たれ、甲高い音が響く。 突撃を告げる角笛が吹き鳴らされる。 どちらからともなく、弓兵隊が矢を敵陣に向けて射掛け始める。 それがあらかた済むと、じりじりと両軍は互いの距離を詰めていく。 漆黒の部隊は、無抵抗な獲物に群がる蟻の様に蒼の隊を取り囲もうとする。 予想されていた状況であるにも関わらず、蒼の隊には何もなす術が無い。 立ち尽くすミレダは、唇を固く結んだまま戦況を見つめている。 その表情は、まるで涙をこらえているようでもあった。 同じくユノーも、何かこちらに有利な事はないかと、刻々と変わる戦況を見つめていたが、その視界の端にある物をとらえた。 他でもない、ミレダから皇都に戻るよう言い渡された朱の隊だった。 ミレダの命に反してこの地に留まっていた彼らは、戦場を迂回すると右手側面からイング隊に突っ込んで行った。 「殿下、朱の隊が……」 驚いたユノーは思わず大声を上げた。 圧倒的に不利な中に突如として現れた援軍に、蒼の隊は勢いを盛り返したかに見える。 けれど、ミレダの表情は変わらない。 「殿下……?」 「馬鹿なことを……自殺行為だというのがわからないのか……?」 絞り出すようにミレダはつぶやく。 そう、彼女同様、皇都の守備を生業とする朱の隊には実戦の経験が無い。 つまりは構成員全員が初陣と言っても良い部隊である。 予想外の急襲は、わずかな時間の間だけ敵の統率を乱すことはできるかもしれない。 けれど、一度『殺意の暴走』が生じ混乱に陥れば、戦況を好転させるどころか悪化させかねない。 『あの人』の言葉を借りれば、敵も味方も全員まとめてあの世行き、ということになる。「伝令、蒼の隊……シグマに伝えよ。分隊を気にせず、頃合いを見て退けと」 その時、冷静なミレダの声がユノーの耳朶(じだ)を打った。 思わずユノーはミレダの顔を見つめる。 果たしてそこには苦渋の表情が浮かんでいた。
先鋒隊を任せた参謀長からの奇襲失敗の報告を受けたロンドベルトは、怒りを通り越して呆れ果て、苦笑を浮かべることしかできなかった。 無紋の勇者という絶対的な指揮官を欠いた上、その数をも減らしている敵に対し、こちらは圧倒的に有利な立場にある。 にも関わらず不用意な奇襲を仕掛け、挙句に返り討ちにされるとは。 たちの悪い冗談以上に笑えない。「……勝利を自らの手で確実にしようと思われたのでしょうが……」 報告を読み上げたヘラも、戸惑いの色を隠せない。 一方のロンドベルトは卓に頬杖をつきながら、なんとも言えない口調で応じる。「あの件に関しては、罪は不問と言ったのだがな。どうやら相当気にしていたようだな。参謀殿の生真面目な性格が裏目に出たというところか」 ややもすれば状況を楽しんでいるようなロンドベルトの口調に、ヘラは返す言葉がない。 そんな副官の様子にロンドベルトは苦笑を収めると、決戦の地ランスグレン地方の地図を広げた。 どうやら絶対的な司令官を欠いた蒼の隊にも、それなりに戦況を見る目が有る人物が現れたようだ。 あれほど見たくもないと思っていた蒼の隊の内部を、今はなぜか見てみたくなった。 一体それはどんな人物なのだろうか。 興味をそそられて、ロンドベルトは地図の上に手をかざし、視線をランスグレンに飛ばす。 見えて来たのは、敵の撃退成功に沸き立つ蒼の隊だった。 が、歓喜の輪からやや離れたところに、神妙な面持ちで何やら話し合う面々がいる。 どうやら、敵の中にも物事を楽観視せずに正確に見定めようという人物がいるらしい。 彼らがこの度の奇襲を見破り返り討ちにする作戦を立案したのだろう。 恐らくは今回の司令部と言ったところだろうか。 ロンドベルトがそちらに意識を集中すると、彼らの姿が鮮明に浮かび上がる。 一人は、小柄だが体格の良い人物で、傷だらけの装備から察するにこの隊の古参。 いま一人は、少々頼り無げに見える、戦歴はさして積んでい
闇の中に紛れるように、漆黒の一団の行軍が行われている。 他でもなくその目的は、目前の敵……蒼の隊に夜襲を仕掛けるためである。 これは、ロンドベルト直々の命令ではなく、イング隊参謀の独断だった。 出兵前、良かれと思って敵国神官を匿っていると本国に報告したあの行動が、ロンドベルトの逆鱗に触れてしまった。 そう理解していた参謀は、名誉挽回の機会を狙っていた。 ただでさえ覚えがめでたくない以上、どうにかしてロンドベルトの信頼を得たい。 そのためには、何か勲功をあげるのが手っ取り早い。 できれば、本隊が到着する前に勝敗を決しておきたい。 そんな焦りにも似た感情から、参謀はロンドベルトの指示を仰ぐことなく作戦を決行した。 圧倒的に有利な戦況が、参謀の思考を惑わせていたのかもしれない。 息を殺して進軍すること、しばし。 遂に前方に、敵本陣に焚かれるかがり火が見えた。 参謀は右手を高々と上げると、敵陣に向けて振り下ろす。 それを合図に、闇の中を無数の火矢が飛ぶ。 大地に突き刺さった火矢から燃え移り、前方の草むらに火の手が上がる。 それを見計らって、騎馬隊が攻撃を仕掛けるべく敵陣目指して駆け込んで行く。 数の上でも、そして恐らく士気においてもこちらが上だ。 赤子の手をひねるように勝利は転がり込んで来るだろう。 そう確信し、参謀は自らも抜剣し敵陣へと向かう。 だが、そんな彼の目に写ったものは、戸惑い右往左往する自軍の姿だった。 そう、敵本陣には人っ子一人いなかったのである。 「参謀、これは一体……」 「よもや、我らに恐れをなして、戦わずして逃げたのか?」 「何が常勝軍団だ。とんだ腰抜けじゃないか」 軽口が叩かれ、どっと笑い声が上がる。 張り詰めていた緊張感が、緩んでいく。 そんな時だった。 突如として、鬨の声が上がった。 「何……?」 慌てて剣を構え直すが、既に遅かった。 左右から無数
先鋒隊からの報告を受けたロンドベルトは、なんとも言い難い表情を浮かべていた。 前方に対峙する蒼の隊の数は、斥候部隊の報告によると、約六千五百といったところらしい。 ルドラの時よりも、明らかに数を減らしている。 加えて、常に彼らを率いてきた絶対的な指揮官が不在である事は、ロンドベルト自身が誰よりもよく知っている。 にも関わらず、陣頭には以前は決して掲げることの無かったルウツ皇帝の紋章旗を隊旗と共に掲げているという。 常識的に考えれば、この状況は明らかにおかしいと言って良い。 こちらの想定外の所に伏兵を置いているのか、あるいはただのはったりなのか。 常のごとくロンドベルトがその力を行使すれば、相手の手の内はこの上なく簡単に理解できるのだろう。 だが、なぜか今は進んで『見たい』とは思わなかった。 正確に言えば、目の前に展開する敵軍にわざわざ『見る』ほどの価値を見出だせなかったのだ。 見ようと見まいとこの戦で訪れる結末は、ルウツの常勝軍団の消滅以外他にない。 ロンドベルトはそれを強く確信していたからである。 けれど……。 「お加減が優れないようにお見受けしますが……」 そう不安げに声をかけて来たのは、他でもなく副官のヘラである。 こと、ロンドベルトのことに関しては、彼女は本人以上にその心中の変化を察知する能力を有しているようだった。 わずかに苦笑を浮かべて見せてから、ロンドベルトは皮肉交じりに言った。 「いや、敵ながら相手の状況に少々同情していると言ったところかな」 上官の言葉の真意をはかりかねて、ヘラはわずかに小首をかしげる。 「同情……ですか? それは一体、どういうことでしょうか」 「あれほどの軍功を上げながら、最終的に与えられたのが死刑宣告といっても良いこの状況だ。敵とはいえ、あまりにも哀れだと思わないか?」 確かに数に勝るイング隊とこのまままともにぶつかれば、敵に勝ち目は無いだろう。 それを見越した上での派兵だとしたら、悲劇としか言いようがない。